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TEL06-6381-0494

〒564-0026 大阪府吹田市高浜町5番34号

由緒history

■高浜神社の御祭神・御神徳■



■主神

 
素戔嗚尊(スサノオノミコト)
  生産の神、招福開運の神、病魔悪鬼よけの神、家内安全の守護神。天照大神の弟神。


 

 
 天照大神(アマテラスオオミカミ)

  国家鎮護の神、国民の総氏神。伊勢神宮内宮の御祭神。

 
春日大神(カスガオオカミ)
  治国経世、国土安穏、学識、知恵、家内安全の守護神。

 
住吉大神(スミヨシオオカミ)
  
交通安全、長寿、安産の守護神。

 
菊理媛大神(ククリヒメオオカミ)
  和合、縁結び、安産、訴訟、命名の守護神。

 
吹田祖神二座
  
吹田連の祖神火明命(ホアカリノミコト)天香山命(アメノカゴヤマノミコト)
  
と思われます。(農業産業開発の守護神)    (開拓の守護神)

境内神社御祭神

 
大国主命(オオクニヌシノミコト・大黒さん)
  福の神。円満、愛情、縁結び、開運招福、商売繁盛、医薬の守護神。

 
事代主命(コトシロヌシノミコト・恵比寿さん)
  福の神。商売繁盛、国利民福、開運除災、招福家内安全の守護神。 

 

 
宇迦御魂大神(ウカノミタマノオオカミ・お稲荷さん)
  衣食住、殖産興業、開運出世、商売繁盛、芸能上達、家内安全の守護神。

 
布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ・石上大神)
  清祓、魔除け、厄除け、病気よけ、除災招福、国家鎮護の守護神。

 
豊受姫大神(トヨウケヒメオオカミ)
  
生産の神、衣食住の守護神。伊勢神宮外宮の御祭神。

 
奥津彦大神(オクツヒコオオカミ)と奥津姫大神(オクツヒメオオカミ)
  
此の二柱の神はカマドの神、クドノ神といわれる三宝荒神さん。衣食住、家内安全、
  
福徳、愛敬、子宝の守護神。

 
菅原道真公(スガワラミチザネコウ)
  学問の神、天神さん。

 
和加久寿大明神(ワカクスノダイミョウジン)
  御神木・巳の神


■歴史

CEO

高浜神社の創立年代は詳らかではありませんが、五世紀前後の大和朝廷の頃、河内の国で栄えた次田邑の豪族「次田連(スキタムラジ)」の一族が淀川に渡り移住し、次田村を興したのが「吹田」の始まりであり、興すにあたって、彼らの祖神である火明命(ホアカリノミコト)、天香山命(アメノカゴヤマノミコト)の二柱を祀って氏神神社としたのが高浜神社の始まりとされています。
社名は地名「高浜」にちなんで「高浜神社」とつけられました。「高浜」は「吹田」の別称、歌枕でもあります。昔から「吹田大宮」「吹田神社」とも呼ばれる吹田総社でありました。また、摂陽群談・摂津名所図鑑等の古書に「名就神社」とも称し「二魂坊」「日光坊」の脳(なづき)をまつるとしています。高浜神社が知能の神、学業成就、脳神経の神として知られる所以です。
天平七年(西暦735年)僧の行基が訪れ、当社の西方に「石浦神宮寺」を建立し、これを「浜之堂(現在慧日山常光円満寺)」と名付けました。それと同時に当社に牛頭天王(ゴヅテンノウ)を勧請、お祀りして「浜之宮牛頭天王社」と呼び換え、こののち高浜神社は神佛習合の両部神道となりました。両部神道・本地垂跡説では、素戔嗚尊のことを牛頭天王といいまして、疫病から守る神様であります。
貞観十一年(西暦869年)播磨国広峰山に御鎮座された牛頭天王(素戔嗚尊)を山城国八坂郷に御遷座されました。その途中、神崎川をお船でお登りになりましたが、高浜にさしかかられた時、高浜の上手が急に荒れましたので、暫く川の中の「小島」に御避難されました。当時は日本国中に疫病が大流行していましたが、住民はこの疫病の守護神と言われる牛頭天王(素戔嗚尊)に、悪疫退散を祈願してその御利益を得ました。そこで住民はその御神徳を感謝し仰慕してこの島に小社を建て、牛頭天王をお祀りし、これよりこの島を「天王島」と呼ばれるようになりその後、天王島より御祭神の牛頭天王(素戔嗚尊)を高浜神社に合祀しました。
西暦1229~1250年にかけて藤原氏一門の別邸がこの高浜の地に沢山営まれました。特に太政大臣藤原(西園寺)公経、実氏父子の吹田山荘「吹田殿(スイタドノ)」(高浜神社のすぐ前)は最も有名でありました。当時の朝臣、公卿達は方違(カタタガイ)、又は湯治とも言って来遊し、その豪遊については藤原定家が「明月記」に記しています。吹田に来遊された雲上人、藤原為家、藤原隆季、藤原光俊等も「夫木集」で高浜の歌を詠んでいます。西暦1908年、高浜神社に合併された元の神境町鎮座の春日神社は、藤原氏一門が金華玉条を残した栄華時代、西暦1240年にその氏神神社として建立された神社と言われています。
吹田に後嵯峨上皇、大宮院、後深草院、後宇多院も、しばしばこの「吹田殿」に御遊幸遊ばされて、安威川(神崎川)で鵜飼や色々な遊びをされた事が「増鏡」その他の古書にも書かれています。「方違」とは旅立ちの際、方角の良いところに一泊して目的地に行くことを言います。高浜神社は「方よけ」の神社でもあります。
CEO西暦1251年、後嵯峨上皇は吹田殿に御遊幸なされ、その時に当社にも御参詣遊ばれて「社頭の松」と題する御歌「来て見れば千世も経ぬべし高浜の松に群れいる鶴の毛ころも」を御詠みになりました。今社前にのこる「鶴の松」と呼ばれる老松の古株はこの御歌を記念するするものであります。
西暦1380年、僧の笠山得仙(道元六世の法孫大徹宗令の弟子)が当社の西隣りに「護国寺」を建立しました。この寺も浜之堂と同様に、高浜神社御祭神素戔嗚尊(牛頭天王)に寺院守護を祈願してその山号を「牛頭山(ゴヅサン)としました。「浜之堂」も「牛頭山護国寺」も七堂伽藍をそなえた足利将軍代々の祈願寺でもあり、この両院の守護神社であった高浜神社は、遠近衆諸の厚い参詣者つづき、東門前の街道筋に多くの店が建ち並びました。
しかし、景勝地として知られた吹田村も同時に軍事上の要地でもありました。度々交戦布陣の地となり、壮麗だった高浜神社の社殿や門前町も西暦1570~1580の兵火にかかり焼失しました。
西暦1615年4月大阪夏の陣の時、大阪天満天神社神輿吹田の郷土橋本家(一族三人は当社の禰宜)に避難し、それにより高浜神社に天満天神を祀りました。
西暦1617年に新しく領主になった竹中右京進は名社の荒廃を嘆き、高浜神社を再建しました。この復興には郷土橋本家一門はじめ、遠近の崇敬者の大きな協力がありました。
豊臣末期から明治維新まで、領主であった竹中氏(軍師竹中半兵衛の従弟)及び郷土の橋本氏(楠正成に忠節を尽くした橋本八郎正員の子孫)の祈願神社として代々の崇敬厚く、竹中氏は社殿の御造営のほか御神宝奉納、御初穂米毎年五石宛献納、橋本氏も社殿建造等に万金を投じて協力されました。
高浜神社は神佛習合の両部神道でありましたので、祭礼には上記の神宮寺の二院から別当僧が社参し神前に経文を奏したり、遷宮にも導師をつとめた関係から両寺どちらからも高浜神社を支配せんものと争いました。西暦1678年より高浜神社をそれぞれの鎮守神社であるとして訴訟を起こしました。大騒ぎとなり、多くの村人たちは証人として度々奉行所に呼び出され困り果てていました。西暦1689年に吹田村庄屋年寄組頭の人々は協議して、上江戸に下り寺社奉行に出廷しました。そしてその年、寺社奉行の判決によって「高浜神社は常光円満寺の鎮守でも、護国寺のものでもない。吹田村の氏神である」と申し渡されました。11年の長い論争でありました。
しかしこの判決があった翌年に吹田村に大火がおこり、今の高浜町と南高浜町の西部が焼け落ちました。この時に高浜神社も類焼して烏有に帰しました。この火事を「ろくんどやけ(六地蔵焼け)」と言い伝えています。
西暦1693年に先年焼失した御本社を再建しました。現在の社殿がそれであります。
西暦1775年、神主従五位中務小輔岡本定吉(藤原氏子孫)が、当地吹田に関係の深い藤原氏の氏神春日大神、並に摂津国一之宮の住吉大神を相殿に勧請奉祀しました。
西暦1781年に神主出雲守岡本定賢(大阪生玉大神社神主となり、従五位中務小輔松下敬允と称しました。尚、大阪生玉大神社初代神主は岡本家より出て、秀吉の主人松下嘉兵衛の二男です。)は、両部神道を廃し新しい御神体を謹作して、神祇管領卜部良延の宗源宣旨を受けました。これにより高浜神社は卜部神道(吉田神道)に変わりました。
西暦1787年、領主の竹中主水は毎年初納米五石を中条奉仕の高浜神社に御初穂として献納することとしました。このことは明治維新まで続けられました。
西暦1789~1800年には大阪の狩野派絵師として知られた後素軒橘保春も、景勝地吹田に遊び高浜神社に逗留して、二間四枚の襖に「松竹梅に鶴」を描きました。今に伝えられ、神社の宝物の一つとなっています。
西暦1908年に南高浜町鎮座の「春日神社」「白山神社」「大明神社」及び「菖蒲神社」を合併しました。


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